原爆被災資料 I セット (10点)
1 桟瓦(爆心地より約400m)熱線の直射を受けた瓦の表面はすべて沸騰して泡立ち、被爆瓦特有の発泡状の痕跡を残した。近距離のものほど泡は大きく、想像を絶する熱線の恐ろしさを示している。実験の結果では、4秒間、1,800度の高熱にさらすと同じ現象が現れる。 |
2 浦上天主堂の軒瓦爆心地から約500mの地点にあった浦上天主堂は、東洋一の壮大さを誇っていたが、原爆により、わずかな堂壁を残しただけで無残に崩れ落ちた。天主堂特有の花十字が刻まれている。 |
3 溶けた一升瓶熱線により変形した一升瓶の底部分。爆心地付近にて収集したもの。 |
4 変形した瓶昭和47年に山里町の家屋改築中に土中から出てきたもの。 |
5 ガラス溶解物爆心地付近より収集したもの。高熱により変形している。 |
6 蓋付陶器寄贈者のおばが、家野町付近(爆心地より北へ約1.5km)に住んでいて被爆死した寄贈者の家族の遺骨をそばにあった器に入れて持ち帰ったもの。ずっと骨壷として使っていた。表面にガラス等が付着している。 |
7 銅製鏡当時寄贈者の父親は国家公務員で、動員で三菱重工へ行っていた。そこで被爆し重傷を負ってトラックに乗せられて諫早市まで戻ってきた。その時担架の中に入っていたもの。熱線と爆風により変形している。 |
8 炭化した麦この黒焦げになった麦は、1991年(平成3年)7月9日、爆心地から約400mの岡町の市道地下から、下水道工事中に発見されたものである。 |
9 皮ベルト当時長崎医科大学附属医学専門部1年生だった大久保 彰さんは、被爆後行方不明になっていましたが、翌年1月18日、遺体となって金毘羅山の中腹、高圧線の鉄塔のそばで、変電所の職員により発見されました。遺体の証明をしてくれたのはお母さんが作ったゲートルの裏に白布に書いて縫い付けていた名札でした。彰さんの遺体は落ち葉や枯草に半ば埋もれ、ひじを曲げ、つま先を揃え、うつ伏せの姿で骸骨になっていました。このベルトは、その時彰さんがしめていたものです。 |
10 ノートこのノートは大久保彰さんが中学2年の時から使用していたものです。当時の少年たちが競って描いた飛行機の絵が数多くみられます。 |
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長崎市 原爆被爆対策部被爆継承課
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