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長崎医科大学等

長崎医科大学、同大 附属医学専門部(東南東0.5キロ 坂本町)
同大 附属薬学専門部(東0.6キロ 坂本町)
同大 附属医院(南東0.7キロ 坂本町)

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長崎医科大学

 長崎医科大学は爆心地に近く、建物、病院施設、人員のすべての面で致命的な被害をこうむった。

 まず、大学であるが、爆心地を見おろす丘に本館、基礎学教室および二つの専門部などがあり、しかも木造建築であったため原爆の炸裂と同時に倒壊し、次いで火災を発生して全滅した。基礎学教室では、教授以下教室員のほとんどが爆死、または被爆死亡した。中でも五つの講堂は、解剖、生化、生理、細菌、病理学を講義中に倒壊し、教授とともに受講中の学部および医専の学生多数を失い、大学最大の惨事となった。これら講堂の焼跡から教授は教壇に、学生は座席についたままの姿で発見されたが、受講中の学生約480人のうち65%を占める314人が爆死した。その内訳は次表の通りである(医専1年生は二つの講堂に分かれて受講)。なお、この犠牲は学生死亡数の約60%にのぼっている。

 基礎学教室並びに医専、薬専などの被害状況はつぎの通りであった。

  • 解剖学第一教室(総員11人)池田吉人教授以下教室員4人爆死または被爆死亡。自宅爆死1人。
  • 解剖学第二教室 高木純五郎教授被爆死亡。教室員1人教室で爆死。
  • 生理学教室 清原寛一教授以下教室員3人爆死。芦塚陽助教授は講堂で講義中爆死。
  • 生化学教室(総員7人) 教室員6人爆死。斉藤圭一助教授講堂で講義中爆死。
  • 細菌学教室(総員9人)教室員5人爆死または被爆死亡。内藤達男教授講堂で講義中爆死。
  • 薬理学教室(総員9人)祖父江勘文教授以下教室員7人爆死または被爆死亡。
  • 病理学第一教室(総員9人)教室員6人爆死または被爆死亡。
  • 病理学第二教室(総員3人)教室員1人爆死。梅田薫教授講堂で講義中に爆死。
  • 法医学教室 国房二三教授以下教室員3人爆死または被爆死亡。
  • 衛生学教室(総員6人)大倉玄一教授以下教室員3人爆死または被爆死亡。
  • 東亜風土病研究所(総員9人)金子直教授以下教室員6人爆死。

附属医学専門部

 小野直治助教授(解剖)は講堂で講義中に、保野正之助教授(病理)は下宿(永井隆助教授宅)で、松尾京哉教授は学内で、いずれも爆死した。

 医専の学生は前述のように、受講中の1、2年生のうち277人が講堂の下敷きとなって爆死した(前表参照)。次いで、9月に卒業の3年生約80人と仮卒業生の一部残留者は附属医院の各科に配置されていたが、このうち28人が爆死または被爆死亡した。学生の死亡者は合計305人。

附属薬学専門部

 薬専ではこの日、在校の教授は少なく、杉浦孝教授が薬草園で爆死したほか、山下次郎教授が入院先の附属医院で被爆し死亡した。

 学生は総員201人のうち、1年生88人は三菱電機製作所の本工場に、2年生51人は熊本県の日本窒素水俣工場に動員中で、ともに難をまぬがれた。しかし、3年生49人は9月に卒業のため、動員先の福岡、山口両県の製薬工場から帰校し、校内の防空壕補強工事中に23人が爆死、または被爆後死亡するに至った。このほか、学校に残留していた2年生9人、1年生4人が同じく死亡した。

 薬専の被害は、教授2人、学生36人、事務関係者6人、合計44人である。

 なお、学生関係であるが、学生の死亡者は医専が最も大きく、学部、薬専の順となっている。

 学部についてはいえば、1、2年生は医専と同じく受講中に136人が無惨な最期をとげた。臨床実習中の3年生約80人、卒業試験中の4年生約80人、仮卒業生の一部残留者はほとんど附属医院の各教室に配置されていたが、このうち58人が爆死または被爆死亡し、合わせて194人を失った。

 当時、医大には約900人の学生が在籍していたようであるが、このうちの約60%にあたる535人が原爆の犠牲となった。

附属医院

 一方、臨床学教室すなわち附属医院は地下1階地上3階の鉄筋コンクリート建で、基礎学教室の南100メートル余りの丘に建っていた。このため外形はそのまま残ったが、内部は爆心地帯の建物と変わらず、各階とも完全に破壊され、さらに火災となった。ここでは比較的に爆死者は少なく、角尾晋学長を始め教職員、看護婦、学生、事務関係者など負傷者が多かった。これらの人びとは、あるいは自力で、あるいは救出されて裏山に避難した。裏山には基礎学教室の方からのがれてきた人も沢山いた。

 附属医院における各科教室の被害状況は次の通りであった。

 角尾内科学教室(総員47人)角尾教授以下教室員18人、本館3階、同内科看護室、治療室等で爆死または被爆死亡。

 角尾教授は本館3階(大半の教室員が診療に従事していた)の外来診察室で診察中、背部と大腿部に重傷を負い、裏山に救出されて調教授の手当てを受け、その後滑石救護所で加療中だったが、8月22日ついに不帰の人となった。この学長の遺骸は附属医院の構内に運ばれ、教職員ほか一同が木材を積み重ね丁重な火葬をいとなんだ。

 影浦内科学教室(総員36人)古川一郎助手以下10人、教室、研究室等で爆死または被爆死亡。菊野晴二郎教授は所用帰宅中で自宅爆死。影浦尚視教授は諫早の県立教員保養所(同所長兼任)へ出張中。

 古野屋外科学教室(総員37人)石崎戊助教授以下12人、外来診察所、病棟等で被爆死亡。古野屋宏平教授は外来診察所で負傷したが、救護打ち合わせのため金比羅山越えで新興善国民学校救護所におもむいた。

 調外科学教室(総員約20人)溝田輝雄研究補助員は研究室で、河田ヒサヱ看護婦はギブス室で、両名とも爆死。

 調来助教授は教授室で被爆後、裏山で教職員負傷者の手当にあたり、また8月12日から1週間、調外科を主体とする救護班を組織し、滑石救護所で教職員、学生、看護婦等の治療と看護に活躍した。

 産婦人科学教室(総員約60人)内藤勝利教授以下21人、旧患外来診察室、2階病棟、医局などで爆死または被爆死亡。このうち看護婦は田中米子看護婦長以下14人。内藤教授は病棟1階の廊下で、8月1日空襲で焼残りの図書文献を整理中に被爆、後に遺体が熱気室で発見された。

 小児科学教室(総員30人)野村仲徳副手以下8人(看護婦)、外来患者診察室、研究室で被爆死亡。ほかに路上および自宅爆死2人。

 皮膚科学教室(総員36人)中山善敏助手以下12人(看護婦9人)外来診察室、治療室、研究室等で爆死または被爆死亡。北村包彦教授は外来診察室で被爆。教室員の大半がガラス破片創を受けた。

 眼科学教室(総員25人)山根浩教授以下7人、病棟等で被爆死亡。

 耳鼻科学教室(総員33人)玉屋キクヱ雇以下看護婦九人、研究室および屋外にて爆死または被爆死亡。

 精神科学教室(総員20人)寺田文彦副手以下8人、病室、教室等で被爆死亡。

 物療科学教室(総員21人)看護婦山下秀子以下7人、教室等にて爆死または被爆死亡(5人は運動場にて爆死)。 教室主任永井隆助教授は本館2階で被爆し顔面に負傷したが、それにもかかわらず、負傷者の救出にあたり、12日以降、生き残った教室員で医療班を編成し、三ツ山に救護所を設けて10月8日まで一般被爆者の治療を続けた。

 薬局(総員19人)田中恵美子薬剤手補以下6人、事務室、調剤室等にて爆死または被爆死亡。

 看護学校

 木造2階建の看護学校(寄宿舎)は附属医院の構内にあったが、原爆で全壊全焼した。生徒は1、2年ともほとんど各科の病棟に配属されており、180人のうち58人が爆死または被爆死亡した。

 また、生徒を除く看護婦は約180人のうち51人が同じ運命をたどった。

 事務関係

 大学本館および附属医院、医専、薬専の事務関係者は、山木武俊事務官ほか205人が爆死または被爆死亡した。

 附属医院の入院患者については、8月1日の空襲以後、重傷病者をのぞき退院可能な者は早期退院の措置をとっていた。原爆当日、同病院の患者数は明確ではないが、一説によると入院患者約150人、外来患者約150人、計約300人、このうち約200人が死亡したものと推定されている。(『長崎市制六十五年史』)

このほか、附属医院では長崎消防署の医大派遣隊16人のうち、3、4人の隊員が被爆死亡した。

受講中の学生死亡数

区分 在学生数 死亡者数
医学部 1年生 約100人 64人
医学部 2年生 約120人 73人
医専 1年生 約160人 110人
医専 2年生 約200人 167人
合計 約580人 414人

(『忘れな草』第5号より)

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