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被爆者の訴え

下平 作江さん

 1941年12月、私が6才の時太平洋戦争が勃発し、10才の時戦争が終結しました。戦争さえなければあの忌まわしい、原子爆弾も投下されないで済んだのにと思うと無念でいっぱいです。私達子供にとってつらかったのは、食べる物がない、履く物がないため裸足で学校へ行きました。しかし私達は「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンを掲げて頑張りました。

 しかし、戦争が激しくなり横穴つまり防空壕生活が始まりました。忘れもしないあの日、1945年8月9日、朝早く空襲警報のサイレンが鳴り渡り私達子供は爆心地から800m程離れたいつもの横穴へ急ぎました。暗い穴の中で多くの子供達が隠れていました。間もなくして「空襲警報解除、空襲警報解除」の声が聞こえて来ました。私達は壕の外へと飛び出して行きました。が、私達姉妹と近所のお友達7・8人が残りました。

その時です。ピカッと光り暗い穴の中が隅から隅まで見えたと思った途端に爆風が吹き込んできて私達子供は、あっち、こっちと吹き飛ばされ岩に叩き付けられ、気絶してしまいました。誰からか頭をたたかれ気がつきました。ビックリしました。誰もいないはずの大きな防空壕の中は黒焦げになっている人、肉がちぎれて血まみれになっている人、眼球が飛び出ている人、火傷して二倍三倍にふくれあがっている人達がいっぱい入っていました。口々に「水をください助けてください」と悲痛な声をあげている人々。私は怖くて、怖くて身体が硬直し、動く事が出来なく、ただ「母ちゃん助けて」と叫び声をあげるのみでした。妹も吹き飛びお友達もどうなったかわかりません。姉の子も吹き飛んでいました。 

やっと三人が一つになり肩を寄せ合って早く助けにきてと泣き叫びましたが誰も助けにはきてくれません。「オーイ、オーイ」という声がします。「そこにいるのは誰だ。オレを殺してくれ」と悲痛な声をあげています。見ると桜井の兄さんが横たわっています。腹が破れて腹ワタが出ています。壕の中は黒焦げの人の死体で悪臭がして私達はゲーッゲーッと口から汚物を吐いて助けを待ちました。やっと外から声が聞こえてきました。「オーイ、誰か助かっていないか」の声に「助かっている助けてー」と叫びました。養父が助けにきてくれました。壕の外へ出してもらいました。ビックリしました。今まであった家が一軒もありません。黒焦げの死体と瓦礫の山でした。姉も自宅で黒焦げになって死体で見つかりました。母は近所のおばさんと並んで死んでいました。兄は長大の医学部の生徒でフラフラしながらお友達に助けられながら私達を探しに来てくれました。私達は助かった事を喜びましたが兄も8月11日に「死にたくない、死にたくない」と言う言葉を残し、氷のように冷たくなっていきました。助かった私達三人は、親戚の人達に助けてもらって田舎へと逃げました。私達親子、兄姉の絆は絶たれました。

 1945年末に長崎の焼け野原にバラックを建ててもらい助かった近所の人達と一緒に共同生活が始まりました。電気もない、食べる物もない生活です。あるのは、白骨の死体のみです。夜になると暗闇からポーッと光があがります。白骨から燐があがります。折角生き残っても人間らしく生きる事も人間らしく死ぬ事もできませんでした。得体の知れない病気に苦しまなければならなかったからです。妹も頑張ったのですが、貧しさに負け、病気に負け、母を恋しがって列車に飛び込み鉄道自殺をして生命を絶ちました。「なぜ死んだの、なぜもっと頑張らなかったの!!」と声をかけると同時に涙が流れてどうしようもありませんでした。死ぬ勇気、生きる勇気を並べられた時、妹は残念ながら死ぬ勇気を選んでしまいました。でも私は生きる勇気をえらびました。今は生きていて良かったと心の底から思い、次の世代の人々にどんな事があっても生きてほしいと心から願っています。生命は地球よりも重いと言われています。戦争と言う名のもとに死ぬ事を拒みながら死んでいった多くの人達の苦しさをわかってください。

 二度と被爆者を作らないため今こそ英知を結集して戦争のない、核兵器のない世界を作っていこうではありませんか。

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