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原爆搭載機の進入経路と投弾

 

テニアン出発から

    原爆搭載機Bockscarに同乗の原爆取扱責任者Frederick Lincoln Ashworthの記録の引用に従えば、Bockscarの行動時間は次のようになっている。ただし他の資料や電文類と比較すると時刻に多少の差が見られるようである。(時刻は日本時間に直したもの)

  • 9日の午前2時47分にテニアン北飛行場を離陸
  • 8時15分に会合点屋久島に到着、5分後にBock機The Great Artiste(※1)と会合、しかしHopkins機(※2)が発見できなかった。8時50分に2機だけで屋久島出発、第1目標小倉に向う。
  • 9時44分に攻撃始点に到着、3回の爆撃航程を試みるが目視できず、小倉上空で45分を費やしたのち長崎に向う。
  • 10時50分長崎に到着、レーダー接近し、雲の穴を見つける。
  • 10時58分に目視でF31(長崎に投下された原子爆弾(通称ファットマン))を投下。
  • 11時05分に沖縄に向う。
  • 12時51分に沖縄の読谷飛行場に着陸。
  • 午後9時45分にテニアンに着陸。

(※1)Frederick C. Bock大尉が操縦する計測器搭載機The Great Artiste(B29)。

(※2)James I. Hopkins, Jr.中佐が操縦する観測撮影機Big Stink(B29)

 


原爆搭載機の乗組員が小倉への投弾をあきらめて長崎へ向かう

 ※以下は、長崎への原爆搭載機・ボックス・カー号の機長チャールズ・スィニーの手記を掲載した長崎原爆戦災誌第一巻から、原爆投下に至る部分を引用したものです(一部省略した部分があります)。同手記では、投下時刻は午前11時1分とされています。

 

 ―「ジム、長崎への機首方位を教えてくれ」ヴァンペルトはすでに計算を終えており、すぐさま返答して機首方位を伝えてきた。「当然ながら―このルートで行けば、九州の戦闘機基地の真上を飛ぶことになりますが・・・・・・・」だが基地を避けて海上に迂回して、余分な燃料を消費する余裕がなかった。直進する以外に道はない。

―北西から近づいていた我々は、あと数分で攻撃始点に到着するところだった―

―攻撃始点を過ぎると、ヴァンペルトとバックリーが照準点までの接近を調整しはじめた。街の外観が、レーダースコープに映し出された。バックリーが機首方位と正確な接近速度をビーハン(爆撃手)のために読み上げ、ビーハンは雲の切れ間が現れることを願い続けながら、データを爆撃照準器に入力していった。

 爆弾投下まであと三〇秒だった。トーン・シグナルが作動し、爆弾倉の扉が音をたてて開いた。あと二十五秒。その時ビーハンが叫んだ。「見えました!見えました!」私は答えた。「よし、決めてやれ!」

 ビーハンは、工業地区の三菱のある二つの軍需工場のちょうど中間に、雲の隙間を見つけたのだ。そこは予定照準点から北三キロの場所で、海岸沿いの平地の奥に広がる丘陵によって、住宅地からは隔てられていた。ビーハンがミサイル走路の基準点に自動照準を合わせるために調整を行い、その結果が私のパネルの航路方位指示器に反映され、私は必要な飛行経路の調整を行った。私は依然、投下地点までの操縦を手動で行っていた。

 爆撃航程の初期の段階で、ビーハンは照準点を瞬間的に見ていたのだが、そこで決断を下していたら、レーダーによる航程は中断していたところだろう。だが彼はもっと視界が開けることを願いながら考え直し、それは我々にとっても眼下の都市にとっても幸いな結果をもたらすことになった。

 「爆撃開始!」とビーハンは叫び、あわてて言い直した。「爆弾投下!」投下の瞬間、突然四・五トンも軽くなった機体は、上方へ跳ね上がった。午前十一時一分だった。爆弾倉の扉はまた音をたてて閉じた。私は爆風を避けるために、北東へ向けて、一五五度の急降下で機体を左へ急旋回させた。

 

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