原爆によって、爆心地に近く周りに遮るものがない建物ほど、熱線で火災が起きたり、爆風で激しく破壊され、多くの人たちが、亡くなったり、大けがをしました。医療機関も例外ではなく、壊滅的な打撃を受けました。とくに、当時長崎市内でもっとも設備のととのった、長崎医科大学は、爆心地から約500メートルのところにあり、大きな被害を受けてしまいました。そこで、県内はもとより、九州各地から
、次々と救護隊が長崎にかけつけました。国民学校(今の小学校)は救護所となり、たくさんの負傷者が運び込まれました。また、けが人を諫早や大村方面に運ぶために、救援列車が走りました。しかし、あまりのけが人の多さに治療が間に合わず、薬も十分になかったため、次々に亡くなる人は増えていきました。それでも献身的な救護活動が続きました。