浦上天主堂遺壁(うらかみてんしゅどういへき)

 

銘板

 爆心地から北東へ約500mの小高い丘にあった浦上天主堂は、1895年(明治28年)から建築に着手し、信徒たちの献金と労働奉仕により、1914年(大正3年)に献堂式を挙げるにいたった。そして、1925年(大正14年)に正面の双塔が完成し、大小の鐘が吊された。

 東洋一の壮大さを誇った天主堂であったが、1945年(昭和20年)8月9日、午前11時2分、原子爆弾のさく裂により破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなった。この側壁は聖堂の南側の一部で、1958年(昭和33年)に新しい天主堂建設のためこの地に移築されたものであり、壁上の石像はザベリオと使徒である。しかし、風雨にさらされて傷みが進んだため、安全性を考慮して現在の形状のまま内部及び表面の補強を行った。

 長崎市は原爆で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、この銘板を設置する。

2001年(平成13年)3月 長崎市(原爆資料館)

 

被爆後の浦上天主堂

 1945年8月9日、午前11時2分。原子爆弾のさく裂により、天主堂はほとんどが破壊され、その後かろうじて残っていた堂壁や鐘楼も崩れ落ち、一部の堂壁だけが残りました。崩れ落ちた鐘楼の一つ(重量約50トン)が現在もこの地に原爆被害の跡をとどめて眠っています。

 爆心地に程近い当地区は、17世紀初頭に始まるキリシタン禁令の時代からカトリック信徒の多いところであり、原子爆弾はこのカトリック信徒の聖地に炸裂し、約12,000名の信徒のうち約8,500名が犠牲となりました。

小川虎彦氏撮影