旧長崎医科大学門柱
(きゅうながさきいかだいがくもんちゅう)

 

 門柱は、1.2m四方、高さ1.8m、台座のうえにまっすぐ座っていました。8月9日を境に左側の門柱は9cmも前にずれ、台座との間に最大で16cmの隙間ができました。これは爆風の圧力を測定する基礎となりました。

 門柱の側面には石板がはめこまれており、「わが師わが友、850有余もが死に果てし、長崎医科大学の正門門柱にて、被爆当時のままの状態を生々しくここに見る」と書かれています。

 長崎大学医学部は、被爆当時は「長崎医科大学」という名前でした。爆心地から東に約600mの位置にあり、原爆によって全壊・全焼しました。先生や学生は逃げるひまもなく、倒れた建物の下敷きとなり、発生した火災のために890名あまりの人が犠牲になりました。

 建造物76棟のうち過半数の65棟が木造建築であったため、原爆の炸裂と同時に爆風で倒壊し、すぐに火災が発生して全焼しました。

 5つの講堂では、ちょうど、解剖、生化、生理、細菌、病理学の講義中で、教官も受講中の学部および医専の学生生徒たちは、逃げるいとまもなく、倒壊した講堂の下敷きとなり、ついで発生した火災のため焼死しました。

 これら講堂の焼跡からは、教官は教壇に、学生は座席についたままの姿で遺骨になっていたと言います。

 辛うじて脱出した約30人も、2週間以内にその全員が急性放射能症のため死亡しました。受講中の学生で生存者は1人もいませんでした。

 

 一対のうち片方の門柱は、山かげになっていて無事でした。

 

 平成28(2016)年10月3日、旧長崎医科大学門柱を含む長崎原爆遺跡が、国の史跡に指定されました。