十一時二分の碑 (和田 耕一)

 

和田さんは当時十八歳、長崎市立第二商業学校の学生で、学徒動員で市内電車の運転手として勤務中、爆心地より3km地点で被爆しました。建造物の下敷きとなりましたが、外傷はありませんでした。その後、十四日まで識別困難な爆死した同僚の荼毘等救護活動に携わりました。

 

 昭和二十年八月十五日、当時の日本は終戦の日を迎えた。しかし、長崎には終戦の日はなかった。残されたのは地獄図と化した街であり人々の姿だけだった。合理的な説明は出来ないが、なぜあれほど沢山の市民が、無心な子供達が、残酷に悲惨な状況のもとにさらされたのか。その姿は今でも、いや生かされている限り私の網膜からはなれないだろう。

 長い年月を経るに従い人々の記憶もおぼろになり、被爆という重大な事実が風化され、忘れさられるのではないだろうか。

被爆後六十数年を経て人口構成上戦争を知らない世代が多くなった。世界で唯一の被爆地、広島、長崎への関心は深いけれども、核兵器の本当の悲惨さが真実知られていないということが、完全な核廃絶への道を遠くしているとしか思えない。

 世界の強大国が今なお数多くの核兵器を貯蔵していることに、大いなる危惧と怒りを覚える。

 あの日八月九日。今日も強い日差しが照りつけるであろう螢茶屋営業所へ出勤したのが六時、捺印名札提示し、他の同僚とともに逐次レバーハンドルを受け、車掌さんから出庫車輌番号と、「お願いします」の言葉にうながされて車庫へ、さあ今日は古参車掌の城戸さんだ、頑張るぞ。規定通りに螢茶屋より大橋、思案橋簡の運転に従事する。超々満員の連続である。やっと朝の繁忙時間帯を通過したと思われた頃、賑橋付近で事故があったとのことで運行系統の変更を指示された。

 (結果的にこれが運命の別れ道で今日迄の生存となったのである)十一時少し前と記憶するが、系統変更による長時間乗務より解放されて螢茶屋へ到着、ぶつくさいいながら営業所内へ入ると、所長室で学友の中川さんが片山運転課長等、上司の人よりなにか注意を受けている。聞くところによると賑橋脱線事故の本人だったらしい。かなりしぼられているようだ。済んだことはしかたなかろうにと思いながら、朝食抜きの中間食をとり、長椅子に掛け、同僚達と事故の内容を話し合っていた。

 時刻は十一時二分を指した。強烈な閃光。激しい爆風圧による衝撃。3km地点で受けた実感である。警報下でもないのに営業所が直撃されたと感じた。一瞬体が浮いて床に突き倒された、外界が暗い、背中が重たい。時間が過ぎるに従い周囲が少しづつ見えてくる、惨憺たる状況である。同僚に引き出される。幸い体に異常はないようだと思う。唯唖然としているうちに、「やられた、助けてくれ」の叫び声が聞こえる。どうにか自分をとり戻した。

 それからの救援救護活動には、我ながらよく動いたと思っている。どこの病院、救護所にはこんでも、負傷重傷者の群れだ。薬はない。傷口に赤チンか、チンク油を塗り、布を巻くだけだった。

 その間、営業所へ集まってくる乗務員、係員の人達、なかには負傷した同僚もいる。なぐさめの言葉をかけるがどうにも出来ない。とにかく女性達は早く避難するようにの指示も出る。誰が言ったか浦上方面になにか大変なことが起きたらしいとのこと、もしかしたらの思いが・・・十時過ぎ大橋より螢茶屋へ進行中に途中で離合した学友の辻、服部、田中等三名の顔が一瞬頭のなかをよぎった。時間差を考えた。なにもなければよいがと祈る気持ちだった。

 その内、前の道路が騒々しくなる。人の群れが続く、すさまじい姿をした人間だ。みるも悲惨。それからの視点に入ってくるすべての情況は、長崎最後の日とでも言えるだろうか、大変の二字につきる。やがて夜をむかえる。自宅へ帰る。誰もいない家の戸袋に、家族は無事、田上へ避難するの張り紙、ほっとする。

 裏の高台より街を見ると県庁、市役所、長崎駅前方面は火の海だ。その夜は無人の自宅で残り物を食して仮眠。翌十日早朝、螢茶屋へ出向く。徐々に昨夜からの様子が判り始める、前記三名と五島君や他にも行方不明の人がいるらしい。大橋所属はすべて絶望とのこと、いやまだ判らない、その思いが十四日迄の救援活動のささえとなったが、現地を歩き、さまよいながら絶望の二字を確認せざるを得なかった。

 たしか十二日と記憶している。前述の田中久男君の母様が営業所へ来所され、同君の帰宅をつげられる。生きていたのだよかった。中川さん等と早速かけつける。半壊した部屋の一隅にねかされていた。彼の処へそっと近づく。ああ無惨なり。やさしい顔立ちだったその面影すでになく、かろうじて命をたもっている姿だった。勇気づける言葉もむなしい。

 「僕はなんもしとらん」田中久男が、この世に残した最後の、かすかな、つぶやきだった。そして彼は逝った。

 友を荼毘にふした煙の色。爆心地付近の電停にころがっていた、黒い石ころみたいな幼児の姿。川面に群らがった遺体の数々。つい昨日のような出来事に思える。

 被爆後、比較的元気だった体調にも、いつしか種々の変化が出てきた。しかし他人に言ったところで、どうにもならないだろう。

 それからの私は、被爆のことと一緒に、あの時代のこともすべて忘れ去ろうと思った。そして原爆についても一切、口外すまいと。

 そう思い続けて三十数年であったが、初孫誕生を機に、なぜかあの日、電停横で見た黒こげの幼児の姿が重なり、二度とあの日を繰り返してはいけない、与えてはならないとの強い義務感が生じた。

 それが私に残された道である被爆体験の語り部の歩みとなったのである。

 原爆公園の一隅に建つ電鉄原爆殉難者慰霊碑の前にたたづみながら、此処に眠る、十代、二十代の若き運転手、車掌始め、多くの乗客の痛恨の魂をしっかり受けとめ、私たちの、いや世界のあらゆる人たちの生活と生命が、なにものにも侵されないことを願って、生かされている限り、ひたすらに次なる世代に与える平和希求の道を守り伝えたい。