原爆の威力 原爆災害報告

原爆の炸裂後、長崎県防空本部はその威力についてただちに調査を開始し、当日(8月9日)判明した部分は『原爆災害報告』第四報で報告した。しかしその後長崎市防衛本部とともにさらに調査を進め、次のような総合報告をおこなった。

 

一 中心点より500メートルの圏内

  1. 中心部と推定される場所付近の電柱および樹木の倒壊および傾斜は少ない。
  2. 同圏内の民家は粉砕されている。
  3. 同圏内においては屋内屋外ともに生存するものを認めなかった。
  4. 同圏内の屋内退避壕の状況は不明であるが、屋外退避壕(掩蓋(えんがい))および極めて不完全と認められる横穴式防空壕の崩壊したものはかった。
  5. コンクリート道路は数ヵ所亀裂を生じた。
  6. 鉄筋・電柱・樹木は中心点より各外方に向い放射線状に倒壊していた。
  7. 城山国民学校は鉄筋コンクリート三階建であったが、一部は地階まで原型を認めえないまでに崩壊。
  8. 城山町川ぞいのコンクリート塀(高さ1メートル・厚さ5センチ)は、長さ約100メートルを約3メートル道路上に吹き飛ばされた。
  9. 松山町より城山町に通ずる鉄筋コンクリート橋は、西側に亀裂を生じ、川岸は約10センチ位後退し、欄干は45度位西側に傾斜していた。
  10. 城山国民学校の改良便所汲取口は約5センチぐらい圧搾せられ、かつ厚さ2分の1センチ位の鋳鉄汲取口蓋は破壊されていた。なおここから爆風が入ったもようで、便池のコンクリートは吹上げられた形跡がある。
  11. 城山国民学校の周辺の樹木は、最大直径2尺(約60センチ)位まで根こそぎとなっていた。
  12. 城山国民学校校舎は鉄筋コンクリートの堅牢な建築物であったが、下層よりも上層(2階3階)において破壊箇所が多く、かつ損傷が著しかった。
  13. 城山国民学校舗装道路(コンクリート・厚さ約30センチ)の路面は粉砕されていた。
  14. 鎮西学院の鉄筋コンクリート四階建は、地階において窓わくが屈曲し、三階においては周壁に亀裂を生じ、屋上は一部三階に陥没していた。
  15. 浦上刑務支所の木造建は粉砕され、コンクリート塀は倒壊したが、同所前方の半地下式掩蓋(土の掩蓋)壕は内外部ともに異状を認めなかった。

 

二 中心点より半径1,000メートルの圏内

  1. 県立瓊浦中学校(木造)は粉砕され原型を認められなかった。
  2. 木造建民家は全く原型を認められなかった。
  3. 直径3尺(約91センチ)位の樹木は根元より切断、または根こそぎに倒れていた。
  4. 農作物(甘藷・水稲等)は地上に露出した部分は全部燻焦していたが、地中の部分は燻焦をまぬがれた。水稲は水辺部分および上部のみが燻焦していた。
  5. 山里国民学校運動場周辺の横穴式防空壕(それぞれ簡単な爆風除けを構築)は内外ともに異常を認めなかった。
  6. 長崎医大附属病院は窓ガラスが全部破壊し、煙突1本(コンクリート)は東南に向け中部より約10度位傾斜した。
  7. 大橋町所在のガスタンク(鉄骨および鉄板をもって築造)は地上より3分の1程度の箇所より大破し、鉄骨は原型を認めない程度に屈曲したものもあった。

 

三 中心点より半径1,500メートルの圏内

  1. 竹ノ久保変電所は直接爆風に当ったものと認められ、北部の鉄柱・鉄わくは南部または西部に向い倒壊していたが、鉄筋コンクリートの建物はガラスが破損したほか内外ともに異常はなかった。
  2. 三菱製鋼所の鉄骨は全部南方に向い傾斜し、屋根は全部吹き飛ばされ、同工場北端部の鉄骨は屈曲し原型を認められなかった。

 

四 中心点より半径2,000メートルの圏内

  1. 淵神社境内は最大直径3尺(約91センチ)位の椎の木は根元から倒れ、同神社は原型をとどめぬ程度に粉砕された。
    なお同境内において遊戯中の15~6歳の男児2人(学生服上下着用)は焼死した模様。
  2. 稲佐国民学校の鉄骨建雨天体操場は、直接爆風を受けた北側はいちじるしく屈曲し、南側は南部に向い倒壊していた。
  3. 稲佐国民学校鉄筋コンクリート3階建の窓ガラスは全部破損、鉄製窓わくは内部に向い屈曲したが建物自体に異状はなかった。
  4. この圏内の木造家屋はすべて倒壊。
  5. 横穴式防空壕は内外ともに異状なし。

 

五 中心点より半径2,000メートル以上の区域

  1. 大波止の日本通運株式会社長崎支店倉庫の西側鉄扉(厚さ約3分の1センチ位)は中央より屈曲し、約5メートル内部に吹き飛ばされていた。
  2. 長崎港内の船舶の内部において作業中の船員は無事であったが、甲板上にいた船員は軽度の火傷を負った。
  3. 民家は中心部より約2,000メートルの程度より逐次破壊力が減少していた。
  4. 半径3,000メートル以上の区域の民家は、直接爆風に当らぬものは建具および瓦の破壊の程度にとどまっていたが、壁の崩落、湾曲、亀裂なども見られたところもあった。
  5. 山林の樹木は岩屋山中腹より女神崎山林に至る間において、内部に面する部分はことごとく燻焦し、なお直接爆風に当らぬ背面には異状なし。

 

六 その他

  1. 大橋町所在のガスタンクは3分の1程度より爆風の進行方向に向って倒壊していたが、その陰にあたる雑草は点々と燻焦の程度にとどまり、なお疎開廃材の積み重ねたものはそのまま残っていた。
  2. 爆風は山峡等を通過する際きわめて強烈なようで、竹ノ久保町上方の山林杉林約100本は根元より同一方向に押しつけられた型で倒れていた。
  3. 爆風は中心点より半径約40キロに及んだようで、西彼杵郡亀岳村(現在西海市)および脇岬村(現在長崎市)において農耕中、爆風圧を感じた者もあった。
  4. 熱風は部分的には相当の広範囲におよび、川南香焼島造船所(中心点より約9キロ)にて稼動中の従業員1人は閃光を認めた際、顔面に軽度の火傷を負った。

 

また、被害現場に残存する建物、草木の残骸、被害程度の濃淡等の調査によって、総括的に次のように判断された。

 

一 爆心地よりの距離による被害状況

1キロ以内の区域

 人畜は強力な爆発圧力および熱気によってほとんど即死、家屋その他の建物、木柱は紛砕し、爆心付近は同時に焼失、他はほとんど同時に各所より強力に火災を発生す。墓石の倒壊続出す。草木は大小にかかわらず爆風の方向へ薙ぎ倒され、幹枝も切断、炎上した。

 

2キロ以内の区域

 人畜は強力な爆風および熱気によって一部は即死し、大部分は重軽傷を負う。家屋その他の建物、木柱は約80パーセント倒壊し、かつ各所より次第に火災を発生し大部分が焼失した。
 コンクリート柱、鉄柱の倒壊なし。草木は一部炎上枯死。

 

2キロ~4キロ以内の区域

 人畜は強力な爆風にともなう飛散物によって一部重軽傷を負い、輻射熱線により一部は火傷をこうむる。
 黒色の物質は引火を来し、家屋その他の建物はおおむね半壊、木柱の焼失せるものあり、一部の建物は焼失した。木柱表面には爆心に向い、黒い焼痕を生ず。

 

4キロ~8キロ以内の区域

 人畜は爆風にともなう飛散物によって一部重軽傷を負い、家屋は半壊または一部損壊。
 15キロ以内相当強力な爆風を感じ、家屋の窓ガラス・扉・障子などを破壊。

 

二 爆風

 爆心より放出した爆風は放射状に地上の物体を傾け倒し、爆心より1キロまでは立木はことごとく爆風の方向へ薙ぎ倒され、2キロの鉄筋コンクリート建物は屈曲した。

 

三 地域および地形との関係

 市中央を縦走する金比羅山稜および市東部に起伏する風頭・愛宕山丘陵地等の爆心地反対斜面および東部凹部の地上施設は、比較的近距離(爆心地より2~5キロ)であるが、被害は軽少である。これに比し、西浦上方面は爆心地より5キロ以上のへだてた山上まで一部焼失している

 

被害状況

死者  73,884人  
重軽傷者 74,909人  
合計 148,793人  
罹災人員 120,820人 (半径4キロ以内の全焼全壊家屋の世帯員数)
罹災戸数 18,409戸 (半径4キロ以内の全戸数。市内総戸数の約36%)
全焼 11,574戸 (半径4キロ以内。市内の約3分の1に当る)
全壊 1,326戸 (半径1キロ以内を全壊と見なしたもの)
半壊 5,509戸 (全焼全壊を除く半径4キロ以内を半壊と見なしたもの)

 この数字は長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の報告によったものだが、これが今日の通説となっている。

 ちなみに、昭和20年(1945)9月1日現在の長崎県知事の報告書(第11報)には、屍体検視済のもの19,743人とあり、この検視はほとんどが原爆直後の混乱期に、被災地現場で行われたもので、即死状態の氏名不詳、性別不詳といった、いわゆる身元が判明しない死体も約2,000体に及んでいる。累々たる死体の群れ、黒焦げや、ひどく損傷した遺体を目前にしては、身元確認の術もなかったことが、この数字からもうかがえよう。

 またこのほか行方不明として届出のあった者が、1,927名あり、何れも死亡したものと思われるともある。