長崎県立盲学校・長崎県立聾唖(ろうあ)学校(北東0.6キロ 上野町)

 上野町の盲学校と聾唖学校の校舎は、三菱造船大橋部品工場の一部が疎開し、工場になっていた。コンクリート2階建であったが、本工場と同じく大きな被害をこうむった。

 工場の職員は佐藤武夫事務ら6人が即死、雇員、女子挺身隊若干人が死傷した。

 工員は、本工場と、この疎開工場合計して死亡者総数265人、生存者は約10%にすぎず、他に動員学徒の常清高女40人中23人、純心高女44人中34人が死亡した。

 しかし、この死傷者数は中間報告的なもので、例えば純心高女学徒の場合、『純心学徒隊殉難の記録』(純心女子学園発行)によると、当日右の2工場の出勤者中、即死36人、重軽傷を負い時津国民学校や諫早方面の収容所、または自宅などで死亡した者、教官2人、学徒98人で、合計136人となっている。

 両校が工場になったとき、盲学校は昭和20年6月西彼杵郡長与村丸田郷の仮校舎に、聾唖学校は同年5月、南高来郡加津佐町の仮校舎に、それぞれ疎開していた。ただ、聾唖学校の生徒のうち疎開できなかった者のために、同じ上野町の県立工業学校土木建築科の教室を借りて分教場としていたが、原爆炸裂時に生徒が登校していたかどうかはわからない。

 また、盲学校の記録によると、同校の多以良校長が原爆症で死亡した。県庁で用務を終え、盲学校へ帰る途中に被爆したのが原因であった。

 

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