三菱病院浦上分院(南1.3キロ 茂里町)

 浦上分院は、現在の茂里町電停付近の東側にあった。木造モルタル塗りの二階建で、一階に待合室、薬局、内科、外科の診察室、レントゲン室があり、二階は二四床をもつ病室と、南西側が眼科の診察室になっていた。

 ここでは、被爆例としては珍しく、この眼科診察室の一角のみが、まるで移したように10メートル程も吹き飛んで立っていた。「さて、二階から下に降りようとして周囲を見回すと、私のいた西南端の一角は、一部屋ほどだけが吹き飛ばされて、5、6間先にそのまま突っ立っていた。階段も半ば千切れながら残っていた。私は用心しながら、この階段によって地上に降りた」と眼科診察室で被爆した山本千二(担当医)はその手記(三菱製鋼所『原爆の思い出』に収録)に記している。次は、同手記による分院の状況である。

 病院を逃れた私たちは、緑町の崖にある防空壕に待避した。眼科の3人の看護婦のうち、一人は行方が判らなかった。崩壊した病院はやがて火事になった。この時の犠牲者は正林分院長、レントゲン技師、看護婦、それに入院患者(2、3人)だった。

 私は、緑町の崖にあった防空壕に二晩泊まって治療にあたった。薬は、かねて分院の構内に埋蔵しておいたので、それを掘り出して来て使った。もっとも、赤チン、火傷の薬など石油缶二缶だけだったので、防空壕に来るものは誰彼の区別なく処置しているうちに、すぐなくなった。

 原爆の翌日にはわれわれの防空壕の前に、三菱造船所の肥塚副所長が天幕張りの連絡事務所を作られて、幸町工場救援の指揮をしておられた。